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西洋のレッスン、日本の手習い

-言語化しにくい身体感覚をめぐる比較文化論-

樋口桂子 著

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西洋のレッスン、日本の手習い

定価3,520円(本体3,200円)

発売日2025年10月27日

ISBN978-4-7917-7747-1

「歌うように弾きなさい」と言われたら……
レッスンとは、人が人に対して言葉にできない情報を伝えるという高度なコミュニケーションの場である。そこから見える、日本の文化や日本語の特徴、大人と子供のちがい、声と文字との関係、カンとは何か……。「レッスン」という観点から文化や習慣や歴史の違いを超えた、言語と身体とでなされるコミュニケーションの本質を考える。異色の文化論。

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まえがき

第1章 カンと姿勢

先生を選ぶ  体幹とリズム  メルロ=ポンティ的予感  ホールを身体と化す  世阿弥の呼吸とチェロの構え  武家の礼法  イザベラ・バードが見た日本人の姿勢  指示方向は揺れる――文化の左右  フランス人の左右  日本文化の左右  右と左の教え方  回転する身体方向  カンとラカンのアハ体験  カンとコツ  方向の絶対感覚  フッサールとキネステーゼ  手習いと身

第2章 大人のレッスンと子供のレッスン

引き出すレッスン  ピアノレッスンという記号―忍従と従順  ピアノが変わると女性が変わる  虚像の身体から実像の身体へ  虚像の身体から実像の身体へ  魅せる身体  鑿と情念  フランス人のサンス  コンディヤックと「習慣論」  「子供」の発見  日本人の身体観――身と身体 身とこころ  教育か遊びか  口で考える子供  「型破り」という快

第3章 見ることの感染力

「相性」の正体  ポライトネスと潤滑作用  呼称と語尾のかたち  共感のための冗長と共話型の言語  ギトリスの巧みさ  「合う」の意味と「合う」場  神の声と声の言葉  目はどこを見ている?  「見る」場とコソアド感覚  指示詞と私  場のなかの「私」と「あなた」  鏡のある日常社会とラカンの鏡像理論  投げる視線とまなざし  臨床の場とレッスンの場

第4章 日本人のたとえ方

「食べる」比喩とレヴィ=ストロースの食作法  和える、切る、魅せる  去勢の国境  野菜の比喩は語る  食は言語をつくる  「合う」という生  のる声と憑つかれる人  イメージの音声と記録の語音  イメージの音声と記録の語音  記載歌と掛詞  共感の歌と比例の歌  かけあう日本の歌  「うたの六様」の底  漢詩の「志」と和歌の「こころ」  声で書かれたレトリック  見立ての展開  レッスンには驚きがある

第5章 歌うように弾く

「歌うように弾きなさい」  物語る音と響く音  歌う力と踊る力  聞く聲と書く声  比例音律の葛藤  調律された音と雑音  雑音に声を聞く  共感する音と雑音の力  助詞の冒険  テニヲハ、あのねえ、べらんめえ  結びの統制力  「は」と場――「古里は花ぞ」と「古里の花ぞ」  小さな語の大きな働き  動きを宿す語のリズム

第6章 レッスンという翻訳

レッスン言葉と方言  解読としての翻訳  訳すということ  日本語の「愛してる」  原典と翻訳  『長恨歌』と和歌  多義と曖昧―日本語のウラとオモテ  反転する現実とサインの影線  浮世、憂世、うき世  イメージによる世界、イメージの鳥  意という「こころ」  倚傍のうた――類型としての季節  〈とき〉のイコノロジー  名前に宿るレトリック

終 章 レッスンの原点

純粋な声と雑音の息  身体と擬音力――「ふぅ」と「はあっ」  カタカナ語化と映画タイトル奪取―『悪魔のようなあなた』  ト書きを読解する

あとがき